租田英作 Eisaku Wada 1874-1959 鹿児島県生まれ。のちには牧師になった父が海軍兵学校の英語教官として就任するにあたり、1879年ころ上京、明治学院に学ぶ。同字院の先輩には島崎藤村が、同級生には三宅克己がおり、三宅の絵の教師で工部美術学校のサン・ジョヴァン二門下の上杉熊松に手ほどきをうけたのち、1891年、上杉と同窓の曽山幸彦に入門する。翌年、曽山が亡くなり、三宅とともに原田直次郎の鍾美館に転ずるも、原田もまた夭折、閉塾となり、1894年、新設まもない黒田清輝の天真道場にはいる。黒田も驚いたのみこみの速さで、翌年の第4回内国勧業博覧会では《海辺早春図》で、浅井忠の《旅順戦後の捜索》(no.22)、黒田の《朝妝》、久米佳一郎の《山径晩暉図》(no.94)などとならび妙技二等賞を受賞する。1896年、白馬会の創立に加わり、以後滞欧中も欠かさず第11回展まで白馬会に出品をつづけた。この年、東京美術学校に西洋画科が新設され、黒田の教授就任に際し、岡田三郎助、藤島武二とともに助教授に抜擢されたが、翌年、職を辞して同校西洋画選科に持例の四年生として入学、《渡頭のタ暮》(no.42)を卒業制作に、西洋画科の最初にしてただ一人の卒業生となった。1898年、ベルリンから日本美術の研究に来日したアドルフ・フィッシャーにつきそって各地を案内したことから、その蒐集品の整理を乞われて、翌年、ベルリンへ渡る。ベルリンでは1898年、アカデミー派から分離派が独立、翌年にはマックス・リーバーマンがその会長になるなど新しい動きが見られたが、かれらへの共感を手紙で伝えている。ベルリン滞在中に文部省留学生の命が届き、そのまま1900年3月パリに渡り、まもなく開幕した万国博覧会の会場グランパレに旧作《渡頭のタ暮》の掛かるのを見る。パリでは黒田や岡田同様、コランに就いたが、1901年秋から翌年春まで浅井忠とグレーに逗留、その感化を受けたことは、二人で記した「愚劣(グレ)日記」にうかがえる。1902年にはソシエテ・デ・ザルチスト・フランセのサロンに《思郷(日本婦人の肖像)》が、黒田以来の入選となる。ついで制作された《こだま》(no.103)はフランスのアカデミズムとドイツ的な世紀末の女性表現をとりいれた留学の総決算となり、パリから第5回内国勧業博覧会に出品された。1903年に帰国、あらためて東京美術学校教授に任じられ、のちには同校校長に就任した。1907年の東京勧業博覧会ならびに文展の審査員にも任じられた。 |
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出典: |
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写実の系譜Ⅲ 明治中期の洋画 |
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1988年 |
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p.146 |