独立行政法人国立美術館
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村山槐多
MURAYAMA,Kaita
(1896-1919)

神奈川県横浜市に生まれる。幼少時、教員であった父の転任地京都に移る。早熟な少年として、早くから文芸に関心を示し、中学時代には絵画とともに、詩、小説、戯曲をつくっていたが、1910(明治43)年、京都に立ち寄った従兄山本鼎(1882-1946)が村山家に滞在した。山本は、東京美術学校卒業後、美術雑誌『方寸』創刊に参加し、また新しい芸術を求めて新進の文学者や美術家が参集した「パンの会」に出席していた青年画家であった。槐多は、こうした山本から強い影響を受け、また槐多の画家としての才能を認めた山本は、油絵具一式を贈った。1914(大正3)年、中学を卒業すると、画家を志して上京、山本の斡旋で小杉未醒(1881‐1964)宅に下宿し、小杉のすすめで再興日本美術院の研究所に通った。また上京後、梅原龍三郎、岸田劉生の作品に惹かれたり、高村光太郎(1883‐1956)のアトリエに出入りし、「Renoir Japonになりたい」と友人に書き送っていた。同年10月の第1回二科展に4点の水彩画が初入選。そのうちの《庭園の少女》は、その後の作品にみられるように槐多の体質的な色彩とでもいえるような鮮烈な青と赤を基調にしたナイーヴだが主観性の強い小品であった。日本美術院の展覧会には、1915(大正4〉年の第1回習作展から出品するようになり、1917(大正6)年の第4回日本美術院展洋画部では、《乞食と女》(現在所在不明)が院賞を受賞した。しかし、前年から、女性に一方的に恋幕の情をよせて奇矯を演じたり、小杉宅を出て放浪の旅と転居を繰り返したりと、その貧困をきわめた生活はデカダンスの色彩を強めていった。そして、この年の4月に旅先で喀血、肺結核を発病した。同年11月には、実業家から援助を受けるようになり、代々木に居を定めて制作に専念するようになるが.翌年2月、流行性感冒に肺炎を併発して、わずか22歳で没した。槐多は、やはり同年6月、20歳で没した画家関根正二(1899‐1919)とともに、この時代の夭折の画家として、今日までたびたび併称きれている。それは、この二人が、個性的な表現が何よりも尊重された大正期の美術にあって、アカデミズムはもとより、様式にとらわれることなく、鬱勃たる育年期の感情とイマジネーション、そして柔軟で張りのある精神を直載に表現した点で共通しているからである。ことに、槐多の場合、強烈な色彩と大胆な筆致で彩られた陰影の深い作品は、数多く残された詩とともに、野生的なほど純粋な生命の燃焼の表現であったといえる。
 
出典:
フォーヴィスムと日本近代洋画
1992年
p.252